原爆投下60年 孫の世代に記憶を伝える

 東京都武蔵野市に住む永井淳一郎さんが、あの日の体験を人前で話せるようになったのは、3年前のことだ。

 原子爆弾が投下された1945年8月6日の朝、広島の私立崇徳中学校の3年生だった永井さんは、勤労動員された郊外の工場にいた。ピカッという光と風圧を感じたように思った。

 夜、自宅に帰ると、広島市立第一高等女学校の1年生だった妹が戻っていなかった。2日後、捜しにいった両親が街の中心部で倒れたままの妹を見つける。シャツに付いた布地の「永井美枝子」という墨文字で、本人と確認できた。

 空襲に備え、街中の建物が取り壊されていた。その後片づけをしていた1、2年生の540人余と一緒の死だった。

●生き残ったことの負い目

 今年74歳。戦後は税務署勤めをし、40年ほど前に東京・神田で税理士事務所を開業した。妻にも2人の息子にも、原爆の話はしたことがなかった。

 生き残ったという負い目や悔いから、語る気持ちになれなかったのだ。

 自宅に戻る途中、「水をくれ」と近寄ってくる人に何もできなかった。同窓の中学生の多くが死んだが、自分は生き延びた。妹に女学校への進学を勧めたために、死なせてしまった。

 不安もあった。自分や子どもたちの健康にいつか、被爆の影響が出るのではないか。息子の就職や結婚に支障が出やしないか。語ることが、その不安を現実にしてしまうように思えて怖くもあった。

 その気持ちが変わったのは4年前、父親の遺品を整理していて、タイプ印刷の小さな冊子を見つけたことからだった。「原爆と長女」。体験をあまり語りたがらなかった父親が、妹の亡きがらを見つけるまでの様子をつづったものだった。

 13歳でこの世を去った娘のことを記憶にとどめたい。残したい。被爆から44年後にまとめられた文章からは、「あの日」と向き合うつらさに耐えて記憶を語る父親の、無念と愛情が伝わってきた。

 兵庫県で隠居していた父親が、地域の被爆者団体の会長をつとめていたことも知った。

 亡き父親に背中を押されたようだった。ちょうど武蔵野市で被爆者団体の復活の動きがあり、永井さんは推されて会長を引き受けた。

 近くの中学校で、孫の世代の生徒たちに体験を初めて語った。伝わるだろうかという不安は、学校が届けてくれた感想文で消えた。

 ある生徒は「妹が帰るのを待っている永井さんは、いまの私と同じ年齢。ものすごいショックだったと思う」と書いてくれた。

●語れば思いは伝わる

 広島は6日、長崎は9日に原爆投下から60年を迎える。

 永井さんには小学校に入ったばかりの孫がいる。3世代にわたる歳月が過ぎ、記憶は薄れ、風化していく。

 伝える努力は続いている。おびただしい数の手記や本が出版され、「はだしのゲン」などのアニメもある。

 それでも、広島市が5年前に行った調査では、原爆が投下された年を正しく答えられない小学生が5割を超え、中学生でも3割近くいた。

 毎夏、平和式典が催され、原爆ドームなどが残る被爆地でさえ、風化は容赦なく進んでいる。

 平和学習には「退屈でつまらない」という反応も聞かれるようになった。2年前には、広島の平和公園を訪れた関西の大学生が折り鶴に火をつけて燃やしてしまう事件まであった。

 原爆というとキノコ雲を思い浮かべる人が多い。しかし、その下で何が起こっていたのか。それを想像することは難しい。

 横浜市にある明治学院大学国際学部は、昨年から「広島・長崎講座」を開設し、核をめぐるさまざまな問題を取り上げている。今春には、被爆者を講師に招いた。体験を語る講義が終わっても、学生たちは被爆者を取り囲んで質問攻めにした。

 「こんなに胸が締めつけられる思いは初めて」「これからは私たちが伝えていかなければ」。そんな感想を残した。

 担当の高原孝生教授は「体験者からじかに話を聞くことで、学生たちも同じ状況を追体験することになる。いまの若者は感受性が豊かだから、思いは伝わりやすい」と話す。

 語れば、伝わるというのだ。だからこそ、惨状を身をもって体験した人々がつらい思いを乗りこえて口を開き、「あの日」を伝えていく。そのことがますます大切になっているのではないか。

●風化との困難な戦い

 いま全国に26万6千人余の被爆者が暮らす。平均年齢は73歳に達した。

 やがて、惨禍を体験した人がいなくなる日が必ずやってくる。その時には、さらに困難な風化とのたたかいが始まるのではないか。

 だからこそ、いまのうちに孫たちの世代に記憶を伝え、残していかなければならない。永井さんを突き動かしたのも、体験を語り継いでいってほしいという思いである。

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